行雲流水

エッセイ

初めての小説 | 『S』

お昼どきを外した午後の2時。私と理香子は、人がまばらな喫茶店にいた。ここの喫茶店は、正午以外は客の出入りが少ない。それを知ってこの場所を選んだ。3組ほど客がいるのを確認し、出来る限り周りに人がいない席に座った。注文を受けにくる店員に「珈琲、2つ」と理香子は適当に注文をすませる。店員が席から離れるのを目で確認してから私のほうを向いて口を開いた。
「智子、その後、どうなったって?」。心配そうに理香子は私に訊ねてきた。いきなりの質問に少し戸惑いながらも「う、うん。やっぱり、離婚するみたい」と返した。

 

私と理香子と智子は大学時代の同級生。仲が良く社会人になっても付き合いは続いている。智子は7年前に結婚し、理香子も5年前に結婚した。40近くなる私だけが、未だ結婚していない。

 

離婚の話は、3か月前にさかのぼる。
3人で食事をしてるとき智子は突然泣き出し、震える声で旦那の聡から離婚をして欲しいと言われたことを打ち明けた。聡に理由を聞いても答えてもらえないらしい。おそらく、他に好きな女ができたのだ。相手とはどこまでの関係になったのかは分からない。離婚して欲しいの一点張りだそうだ。

 

その日を境に、智子から相談の電話が私に度々入るようになった。理香子には相談してこないらしい。智子の近況を知りたい理香子は、私を喫茶店に呼び出したというわけだ。

 

「智子も私に相談すればいいのに。でも、まっ、私はあなたたちと違って真面目じゃないからね。付き合ってきた男も片手じゃ収まらないし。一途な智子が真面目なあなたに相談するのも分かるわ」。

 

理香子は明るい性格と容姿の良さもあり、男性からよく声をかけられる。男好きなこともあり、私が知る限りでも10人以上と付き合っている。男の入れ替えの速さに、私も智子もあっけに取られた。

 

智子は聡が初めての男性でありそのままゴールインした。そんな智子を理香子は絶滅危惧種とよく揶揄して笑っていた。

 

「智子も聡さんの浮気なら、慰謝料をふんだくればいいのに」。理香子は語気を強めた。
「智子はああいう性格だから、慰謝料も取らずに離婚するみたい。むしろ、自分に何かが足りなかって言って自分を責めているぐらい」。私は智子からの聞いた心情を報告した。

 

「ほんと、一途だね~~。笑っちゃうわ。そういえば智子、前に話してたっけ。聡さんって、束縛が強いのか、自分のイニシャルの『S』の字のアクセサリーを持たせるんだってね。智子は喜んで『S』 の字のネックレスしてたよね。あぁ~あ、旦那自慢やおのろけ話をしていたのが嘘みたいだね」。私は「うん」と静かに答えながら珈琲に手を伸ばした。

 

その時、理香子の携帯電話が鳴った。
鞄に手を伸ばし、「ごめん。旦那から」と言いながら電話に出た。30秒ほどで電話を切り、「ほんとごめん。今から帰らなきゃいけなくなっちゃった。ここ払っておくから、ね。また今度」。理香子は申し訳なさそうに言った。「ううん、気にしないで。じゃ私はここで少し本でも読んで出るね。小説、持ってきているし」。鞄から革のブックカバーがつけられている新書を取りだし、手に取って理香子に見せた。「あんたってほんと真面目ね。私、小説なんて読んだことないわ。それに、なんか素敵ね、そのブックカバー」。「ありがとう。私も気に入っているんだ。このブックカバー」。私と理香子は笑顔で軽く手を振り合い、理香子は出口へと歩いて行った。

 

私は理香子が車に乗るのを窓から見送った。
「ねえ、理香子。あなたの旦那さんって、健二さんだったわよね。どうして、携帯電話に『S』のストラップがあるんでしょうね。本当に心配しているのは、智子のことかしら……。まぁ、どちらでもいいけど……」。

 

私は小説を開き、ゆっくりと読みはじめた。
カバーの表紙裏には、『S』の文字が刻印されていた。