行雲流水

エッセイ

恩送り

深夜の駅のホーム。俺はただぼーっと二本のレールを見ていた。服は汚れ風呂には二週間以上入っていない。髭は伸びっぱなしで、その風貌はホームレスそのものだ。いや、もうホームレスと言っても過言ではない。借金で家と家族を失い、1ヶ月前から公園で寝泊まりしている。一生奴隷のように働いても借金が消えることはない。ただ利息だけを返して終わる、そんな一生が目に見えていた。

俺は吸いこまれるようにホームから線路に飛び降りた。
電車がすぐそこまで来ている。電車の急ブレーキが聞こえ、二つのライトがすぐ目の前まで近づいてきた。その瞬間、俺の身体は線路から押し出された。線路の上には20代そこそこの若い女性がいる。この女性に私は押し出されたのだろう。女性は笑みを浮かべている様にも見えた。瞬間、俺の数十センチ前を電車が通過し、俺は風圧で目を閉じた。ホームからはおびただしい人の叫び声が聞こえる。

女性は、俺の身代わりになったのだ。俺を助けるためにホームに飛び降り、俺の身体を押した。俺は女に救われたとは思えなかった。女を無駄に死なせてしまった罪の意識だけが重くのしかかる。どう生きていいか分からないうえ、死ぬことさえ許されなくなったのだ。
俺は毎日、日雇いの仕事をしながらなんとか生きながらえている。借金は減ることはなく増える一方だ。1日1食の生活を8年続けている。どんなに辛くても、どんなに惨めでも、命を救ってくれたあの女性のためにも生きなければならなかった。
俺は毎日事故のあったホームに足を運んだ。自分が背負った命の重さを忘れないために。

10月28日22時15分頃、駅のホームが騒がしくなった。
俺のすぐ目の前で一人の中年男性がホームから線路に飛び降りたのだ。「おい。人が線路に落ちたぞ」「危ないから早く登って来なさい」。示し合せたように人が動く。助けを呼ぶ人、非常ベルを押す人、登るように呼びかける人。俺のときもきっと同じだったに違いない。電車がすぐそこまで来ていた。身体が反応した。3人の身体を押しよけて俺は線路に飛び込み中年男性の身体を押しだした。中年の男性は驚いたような顔で俺を見ている。俺は息を切らしながらも、自然と笑みが浮かび言葉が漏れた。「これで俺は・・・」。一瞬、身体が潰れる音と叫び声だけが聞こえた。