行雲流水

エッセイ

大根おろし

大根おろしは好きだが、自ら大根をおろしてまで食べたいとは思わない。大根おろしに限らず、「そこまでしてほしくはない」と思うことは、人生にはいくらでもある。

10年以上前、友人3人と遊んでいたときのことだ。一人が「昼飯、蕎麦食いに行かね?」と提案してきた。特にこれが食べたいといったものを私を含む他2人も持ち合わせていないこともあり、皆が同意した。ただ一つ問題があった。友人の行きたがっている蕎麦屋が、車で片道一時間かかる場所にあるお店だということ。

曲がりながらにも信州人。蕎麦への造詣は海原雄山と引けは取らないと自負する私だが、一時間かけて食べに行きたいほど蕎麦に価値を見い出せてはいない。自分一人だけなら間違いなく選択肢にも上がらない案。だがその日は不思議と前向きに乗っかった。

一時間かけて蕎麦屋に着く。
13時を過ぎているにも関わらず、お店の前には列ができていた。20分ほど待って席にありつけた。味についての記憶はほとんどないのだが、みんなと会話をしながら食べたことだけはよく覚えている。

その後、近場の観光スポットを巡った。気づくと景色が赤く染まりかけている。

家路の車中、ふと思った。
私は蕎麦を食べたくて一時間も車を走らせたわけではない。みんなと移動する時間、その後の観光も含めて、蕎麦を食べに行ったのではないか。

「ホテルに入る前の食事は前戯のうちだ」。ある女性の言葉を思い出した。
今なら、なんとなくわかった気がする。

「ねぇ、大根をおろしてくれない?」と妻。「俺は大根をおろす手間をかけてまで大根おろしを食べたいと思わない」「私が食べるの」
黙々と大根をおろす。